2015-06-11 第189回国会 参議院 文教科学委員会 第13号
例えば社会科について、今、選挙権年齢十八歳に引き下げられますけど、そうしますと、中学の社会科は非常に難しい課題を担わされることになりますから、そういう点で、これを知識中心主義のままでいくのがいいのか、それとも有権者教育のような部分をもっと拡張していくのか、そこの部分を拡張するとなると今度は教員の政治性が問われたりいろんな危険性が入りますから、その点で非常に、教員免許の制度もそうですけれども、難しい課題
例えば社会科について、今、選挙権年齢十八歳に引き下げられますけど、そうしますと、中学の社会科は非常に難しい課題を担わされることになりますから、そういう点で、これを知識中心主義のままでいくのがいいのか、それとも有権者教育のような部分をもっと拡張していくのか、そこの部分を拡張するとなると今度は教員の政治性が問われたりいろんな危険性が入りますから、その点で非常に、教員免許の制度もそうですけれども、難しい課題
現在、中学校では社会科の公民的分野、高校におきましては公民の中の現代社会あるいは政治・経済といった科目で、政治にかかわることあるいは社会にかかわることが教えられておりますけれども、実は、高校になりますとやはり受験科目というようなことがございまして、どうしても知識中心のこと、すなわち三権分立とか国連の機構とかについては知識的にはわかっているけれども、では、実際に自分が何か問題を感じたときに、それをどういうふうに
ただ、その際に、田中参考人から知識中心ではなく体験型という御意見もありましたけれども、判断能力以前の、情報収集とかあるいは読み取り、いわゆるメディアリテラシーが、昨今、テレビ、新聞のみならず、インターネット等、情報が氾濫している中で、このリテラシー能力というのが極めて重要だと思っています。
とりわけ田中参考人からは、知識中心の公民、現代社会では不十分だという御指摘もありましたし、それから、参加型の市民教育で地域の課題を認識して解決していくんだというような御指摘もありました。
先ほど来お話し申し上げております、単に知識中心あるいは概念的、抽象的なことにならないようにという中で、学校教育の中でそういった取り組みをしていくように工夫していかなければならないというふうに考えております。
その上で、先ほど概念的、抽象的な指導に陥ることなくと申し上げましたのは、単に知識中心のものだけでは、なかなかそれに対する理解が、発達段階によりましても異なるところがございますし、よりわかりやすく理解をしていく、そのためにも、単に知識中心だけではなくて、例えば新聞などを活用して、日常生活との結びつきが見られる事例など児童生徒にとって理解しやすい事例を取り上げたり、また、実際に調査したり資料を活用したりしまして
そうすると、その二十一世紀の知識中心型のウエートが高い企業における人材というもの、そうすると、この人というところに注目をした日本のいわゆるこれまでのコーポレートガバナンス、まあ人本主義とよく言われたりすることありますが、こういうものも我々はもう一方で考えながら、金と人、情報、こういったものを総合的に見てこれからの会社法の改正その他、対応していく必要があるんじゃないかと思うんですが、その点いかがでございましょうか
問題は、そういう人が簡単に逃げられてしまったらその企業にとっても実はマイナスだという観点からすれば、正に日本で、人間を大切にするというか、そういう意味での企業に対する信頼感といいますか、そういうものをしっかりと土台に据えた労使関係というものをきちんと作らないと、これはやはり、二十一世紀のいわゆる知識中心の、ナレッジ革命と言われるような、そういう社会ではその企業の存続もやはり危うくなってくるんじゃないかなと
○峰崎直樹君 いや、実は私どももずっと、我々の民主党の中で随分議論した中で、二十一世紀にそういう、将来知的資産というのは重要視しなきゃいけない、知識中心の社会になっていくだろう、それが引っ張っていく社会になっていくだろうと。そうすると、今、実は小学校、中学校、高等学校、大学、大学院というふうにありますが、社会人が恐らくMBAを取りたい、経営学修士を取りたい、あるいは法科大学院、これはできている。
○峰崎直樹君 財務大臣、今のお話もそうなんですけれども、どうもやっぱり資本主義社会の重化学工業、産業を中心とした発展の時代から、どうも二十一世紀は、もちろん経済ですから産業はあるんですけれども、知識中心の社会に変わっていっているんではないかと、こういうふうに言われているんですよね。その点どう思われますか。
そういった意味で、このような形で試験内容を知識中心からこういった集団討論や模擬職務試験を中心とすることによって、倍率は四倍にしなくても、石原大臣が十三日におっしゃったような、予備校に通って特殊な勉強をした人しか受からない試験にはならない試験となるのではないでしょうか。石原大臣、いかがですか。
むしろ大学側からぜひお入りください、入ってくださいと呼びかけていく時代に入っていくということになれば、高等学校も中学校も小学校もあるいは幼児教育も、学問、知識中心の教育よりも、人格形成の方に重きを置いていくことになるのではないか、そのような方向にむしろ我々は努力していくべきではないかな、そんなふうに私は常に思っているところでございまして、西議員のそういう御主張にまさに一致するものではないかなというふうに
それに対して、私は、マレーシアは二十一世紀は情報そして知識中心の社会になると答えました。 マレーシアは小さな国です。そこで、これからの世の中で、世界の中で参加していくためには、この情報通信分野の参入が必要となります。また、独立をかち取ったというような歴史的な経験からも、このマルチメディアの分野において北の国々だけに任せていては我が国が危ないと考えています。
僕はそれはちょっと違うのではないかということを前回に申し上げて途中で終わってしまったんですけれども、要するに学校生活そのものがどんどん知識中心にさらになっていくと。もちろん、地域、家庭にその分ゆとりの時間が生まれるのだから、地域の行事とか、またはお父さんお母さんとの触れ合いとかがふえる可能性はある。だけれども、学校生活そのものは非常に窮屈になるということは歴然たる事実であるわけですね。
しかし、一万だけに教科中心、知識中心という形の中で、学力低下、または入試に困るじゃないかだとかというようなことの形が一方であって、現場ではそこの悩みがあるわけです。
そのような知識中心ということではなくて、これからは、やはり自分で考えて判断をしていく、総合的な理解能力を持つ、あるいは問題を発見し解決していく能力を持つ。
我が国は今日まで知識中心の教育を推進してまいりました。その結果、知的教育水準は上昇したものの、落ちこぼれ、学校不適応という障害も生じております。こうした中で、中教審、臨教審の答申を踏まえまして、個性化教育を前面に打ち出しました。このことは、一人一人を大切にし、画一化を排した教育の推進でありまして、もっと積極的に進めてほしいというものであります。
また、法令知識中心に偏していると言われる学科教習、また操作重点の技能教習のところが多いのではないかというような指摘もございます。ドライバーに対して肝心の安全マインドといった心の問題というものに対する教習が果たして十分に行われているのだろうか、このような批判もあることも事実でございますけれども、こういうことにつきまして警察庁はどのように受け取っておられますか。
ともかく共通一次という知識中心のあの関門を通過しないと次のところに行かれない、それが非常に大きな問題じゃないかと思います。記憶力のいい者、わからないけれどもともかく記憶してそれを書いてくる、そういう生徒が有利なような教育、そこら辺に大きな問題点があるのじゃないかと思います。 私たち大学でもいろいろ問題になっていますけれども、共通一次になってから悪くなったという意見が随分あります。
○会田長栄君 一九五八年すなわち昭和三十三年に社会科というのは改訂されて、実は先生方は知識中心主義というような言い方で呼んだわけであります。いわゆる詰め込み教育の出発点だとこう言われたわけでありますが、今までの社会科の中では社会経験ということが大変重視されてきましたけれども、この改訂によってゆがめられてしまった、こういう声が集約されております。
もっと突っ込んで言いますと、理論的な研究あるいは知識中心の養成というものが先行しておりますけれども、それと実態をブリッジするようなそういった配慮が欠けている、一言で言えばそういうことになろうかと思います。それを私はプラクティカルトレーニングと、こういうふうに呼んでおります。 以上です。
私ども日本の立場から見ましても、やはり我が国も新しい技術開発の発展段階に入っておりますし、今後ともソフト化あるいはこういう知識中心の経済構造に移っていき、かつそうならねばならないわけでございますが、そのためには、やはり技術が持っている国際性、あるいは技術を化体した商品の国際性から考えまして、世界の工業所有権制度あるいは知的所有権制度の確立が必要であるというふうに考えておりまして、そういう意味では基本的
そういう場合におきまする研修の内容がどうしても法律知識中心になりがちでございます。もっとも教養的な面も十分やっておりますけれども、そういう点におきましても具体的に、前向きに検討してまいりたいと、そして先ほど来の御指摘にこたえたいと、かように考えるわけでございます。
そして、今日のように応募者が多くなったから、考えるということだけではなく、実はそうでなくても確かに知識中心で考えるという方向だけであってはならないので、やはり教育実習の問題などもどう考えるか、これは教養審においてすでにいろいろとお考えになっていることでございますので、実は先般来——というのは、特にこの春先から私は教養審のいままでの御意見というようなものも検討いたしました。